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月光 Op.27-No.2



 水平線へと陽が傾き、白い家の壁面が金色に染まっていた。
 午後のひとときを波の音に耳を傾けて過ごしていたみちるは、ふいにリビングから聞こえてきたピアノソナタに耳を奪われた。
 ベートーヴェン作曲『ピアノソナタ第14番』、通称『月光』。
 ピアニッシモで始まりピアニッシモで終わる、静かだが根底に力強さを秘めたこの曲を、はるかは好んでいた。
 幼い頃からピアノ指導を受けていたはるかは、たいていの曲は弾くことができる技術を身につけていた。
 それでもはるかは、好きなフレーズだけをつなげる編曲を自らして、短くなったいろいろな大曲を「このほうが楽しい」と言っては弾くことが多かった。はるかによって小節数を減らされた曲は数知れない。
 みちるにとっては、曲を短くして演奏するなど、作曲者に対しての冒涜としか思えなかったが、最近はこれも音の楽しみ方のひとつなのだと考えるようになった。
 実際、はるかはとても楽しそうに弾いているし、その自由な曲の捉え方は、バイオリニストとしての自分にプラスになるとも、みちるは感じていた。
 そのはるかがこの『月光』第1楽章だけは、どんな時でも必ず69ある小節の全てを省くことなく、時間にすると7分近くをかけてゆっくりと弾きおさめていた。
 みちるが自室を出てリビングに行くと、ピアノに向かうはるかの背中が見えた。
 大きく開かれた左右の指が、優しく、時に悲しげに月の旋律を追っていた。
 魂がこもっている演奏だとみちるは感じた。
 そして最後の和音を押さえたまま動かないでいるはるかに、みちるはそっと近づいた。
「はるか・・・泣いているの?」
「あ・・・いや、そんなことはないよ」
 はるかは少し慌てたようにグランドピアノのフタを閉めた。
「ちょっと散歩に出ないか?」
 春にはまだ遠いこの時期に、夕陽が落ちかかってからの散歩はかなり肌寒い。
 しかし、こんなふうにみちるを誘う時のはるかは、何かしら胸につかえを抱えていることが多いことをみちるは知っていた。
「よくってよ」
 上着を取りに自室へ戻り、開けてあった窓に近づいた時、みちるの目に窓の 外で大きく光る月が飛び込んできた。
「満月だわ・・・」
 みちるは、まるではるかの弾いたソナタに誘われたかのように現れた美しい月を見て感嘆の息をついた。

「私、はるかのピアノ好きよ」
 はるかとみちるは、丘の中腹に建つ家の前に延びるレンガ敷きの散歩道を、丘の上へ向かって寄り添いながら歩いていた。
「みちるにそう言われるとうれしいよ」
「ベートーヴェンが好きなの?」
「うん。何となくクライとこがね」
「クライ?ベートーヴェンの曲が?」
「ボクはそう思ってるんだけど・・・違うかな」
 みちるはまたしてもはるかの意表をついた音楽感覚に驚かされ、心がとても喜んでいるのを感じた。なんだか吹きだしてしまいそうになった。
「ステキよ、はるか。もっと聞きたいわ、あなたのベートーヴェンのお話」
「なんだよ。からかってんの?」
 ちょっとスネてみせたはるかだが、みちるの楽しそうな顔を見ていると、ついのせられてしまう。
「練習曲以外で初めて弾いたマトモな曲が『エリーゼのために』だったからね。相性がいいっていうか・・・。好きなんだよ」
 丘の上まで来た二人は、いくつか置いてあるベンチに腰掛けた。
 はるかはみちるに促され、続きを話し出した。
「『月光』はさ、特に好きなんだ。それまでは力強く弾くことでしか想いをぶつけられないって考えてたんだけど、この曲はボクに静かな情熱の存在を教えてくれたって思ってる」
「内に秘めた想い・・・ね」
 ベートーヴェンはこの『月光』を、身分も違い、年齢の差もある教え子に恋をして捧げられたといわれている。
 はるかはそのことを知っているのだろうか・・・、いえ、きっと知らなくてもこの人は心でそれを感じとれるのだわ・・・と、みちるは思った。
「だから第三楽章は弾かないの?」
 第三楽章はどこか悲しげでもあるが、情熱をそのままぶつけたかのような激しい旋律なのだ。
「違うよ。第三楽章が弾けるくらいのウデがあれば、レーサーじゃなくてピアニストを目指してたサ」
「あら、はるかならすぐ弾けるようになるわよ」
 それからしばらく二人は、明かりが灯り始めた家々を見下ろしながら音楽談議に花を咲かせた。

「風が出てきたな。みちる、寒くないかい?」
「平気よ」
 気が付くと、月が頭上まで昇って地上を照らし出していた。
 帰ろう、と言うはるかの腕に、みちるは自分の両腕をからめた。
 来た道を戻る二人はさっきまでとはウラハラに、ほとんど言葉を交わすことなく歩いていた。
 数メートルごとに建つ街灯が、レンガ敷きの道に歩いている二人の影を、前から後ろへと次々に動かしていった。
 その影たちを見て、みちるは少し陰うつな気持ちに捕われた。
 みちるの目には、動く影たちが運命に翻ろうされる自分たちの姿にも似て見えたのだ。
 そんなみちるの気持ちを見透かすように、はるかが口を開いた。
「この影の中で、ひとつだけ動かない影があるんだ。何だかわかる?」
「えっ?」
 みちるは少しドキッとしながらはるかの顔を見上げた。
 はるかは足を止めてみちるを見つめ、優しく微笑むと天上を指差した。
「月だよ。月の光」
 みちるも立ち止まって天を見上げた。
 はるかの指先には、満月がこぼれんばかりにその姿を輝かせていた。
 太陽が隠れていくつもの明かりが灯る中、唯一無条件に、ただひたすら地上を優しく照らし出す月の光。目立ちはしないが、絶対的な愛を降り注いでいる存在のようにみちるの目には映った。
「月はいつでも変わらずに君を照らしてる。君がどこにいても・・・何をしてても・・・どんなことにも流されたりしない。ボクは君の月になりたいんだ・・・。いいだろ、みちる・・・」
 みちるの目から涙がこぼれ落ちた。
 はるかはみちるの頬に伝う水滴を指で拭うと、そのままみちるを抱きしめた。
「どんな影にも負けたりしない。みちるはボクが守ってみせる」
「はるか・・・」
 胸の内が熱くなり、みちるもまた、はるかを強く抱きしめた。

 再び歩き出したふたり。はるかはベートーヴェンの話の続きをみちるに聞かせながら歩いた。
「『月光』第1楽章の右手が最初から最後までずっと3連符を刻む理由、考えたことある?」
「ないわ。はるかはどうしてだと思うの?」
 はるかの自由な音楽感覚に、みちるの好奇心はくすぐられた。
「さっきの話さ。同じリズムの繰り返しが、月の光は永遠だっていってるようだと思わない?」
 予想以上のはるかの感覚に、みちるは改めて感心しながらも少しイジワルっぽく言った。
「でも曲は終わってしまうわ」
「君のためなら一晩中でも弾いていられるさ」
「私のためになら、第3楽章までちゃんと弾いて頂きたいわ」
 えー!、とはるかは困ったように頭をクシャクシャとかいた。
「練習・・・しないとな・・・」
 はるかは観念したよ、とばかりに言った。
「うれしいわ、はるか。情熱的に弾いてね」
「その前に暖かい紅茶でも飲みたいよ」
「よくってよ。すぐに入れてさし上げるわ」
 二人は冷えた身体を温めるようにじゃれ合いながら家に入っていった。
 そして月はまだ、暖かくその光を降り注いでいた。



END

>あとがき




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