雨音の記憶





 灰色の雲を映した硝子に幾筋も水の雫が伝う。
 薄暗く静かな室内にサァァァァッと控えめな音が響く。
 外は雨。
 日曜の昼下がり、はるかは一人窓辺でコーヒーを飲みながらぼんやりと外を見ていた。
 みちるは朝から出かけている。帰りは夜だ。
 何とかのいぬ間にではないけれど、はるかは久々の一人の時間を満喫しようとあれこれ前々から考えていた。
 しかし、今日も雨。
 何日も前から、しとしとと降り続いている。梅雨なのだからしかたがない。誰も天気には勝てないのだ。
 はるかは出かけるのを取りやめて、家でのんびり過ごすことにした。
 午前中はお気に入りの空と海の写真の載っている本を見て、ゆったりした時間を楽しんだ。一人リビングで遅い昼食をとり、これから何をしようかと考える。
 何をしてもいい、何もしなくてもいい贅沢さ。
 こんな時間も悪くはない。
 ソファーに深く身を沈めながら、雨に滲んだ景色をぼんやりと眺める。
 窓から見える白くくすんだ木々や家々。その向こうに見える海の濃い灰色。どんよりと低い雲をいっぱいにたたえた空。
 見慣れた景色は雨に煙り、普段とは違ったしっとりとした趣をかもし出している。
 太陽の光とはまた別のその静かで優しい波動に包まれていると、心の隅々までおだやかな気持ちに満たされる。
 はるかはしばらくどっぷりとそれに浸っていた。食後なのもあって、じわりじわりと眠気がにじり寄ってくる。
 気持ちよくこのまま眠ってしまおうかと思った、そのとき。
 どこからかかすかにピアノの音が聴こえてきた。
「?」
 この家は今はるか一人。近所にほかにピアノのある家はないはず。
「まさかね・・・」
 しかし、しばらくするとまたピアノの音が聴こえてくる。
「誰だろう・・・」
 不思議に思いながらも、はるかはそのまま眠りに落ちていった。

 夕方まだ早い時間に降り出した雨。
 傘を持たぬ小学生たちが歓声を上げながらバタバタと路地を走っていく。
 はるかは先々月あつらえたばかりの制服が濡れるのにもかまわずに、道を一人とぼとぼと歩いていた。
 その表情は冴えない。
 容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能のはるかは中学校でも有名で、人気者だった。しかしたくさんの友人に囲まれていても、どこかもの足りないような満たされないような空しさをいつも感じていた。
 特別にこれといって問題や不満があるわけではない。
 なのにこの胸に吹く風の冷たさは何なのか。
 このところ学校を出て一人になると、その思いが胸に重くのしかかってくる。
 はるかは無意識に足をゆるめ、やがて硬い表情で立ち止まる。
『このままどこかへ行ってしまおうか・・・』
 暗い考えにとり憑かれそうになった時、どこからかピアノの音が聴こえてきた。
「?!」
 耳を澄ますと、聞き覚えのあるメロディーが雨の音にまじって流れてくる。
「どこだろう・・・」
 はるかはその音色に惹かれるように、道沿いの洋館へと入っていった。
 白い壁はところどころぺンキが剥げ落ち、窓もしっかりと鎧戸が閉まっている。庭は荒れ果てて雑草が生え放題。見たところ空き家のようだが、確かに家の中からピアノの音が聴こえてくる。
 辺りに注意しながら奥へ進んでいくと、窓が一つ開いていてレースのカーテンが揺れているのが見えた。
 はるかはおそるおそるその窓の前に立つ。そっとうかがうように部屋の中を見て、ハッと息を飲んだ。
 部屋の中には一台のグランドピアノ。
 それは黒々と異彩を放ち、薄暗い部屋の中でも絶大なる存在感でそこにあった。
 そしてピアノの前には、白いワンピースを着た髪の長い少女。
 まるで異世界にでも迷い込んだかのような光景に、はるかは心奪われた。
 少女の指先からは澄んだ音が軽やかに、なめらかにつむぎ出されていく。それは雨に滲むように溶け込み、そっとはるかを包む。
 そのややひんやりとする感じが心地いい。
 自分と同い年くらいだろうか。少女はかすかにほほえみながら、一人静かに弾いている。
 ピアノは自分も弾くし、聴くのも好きだ。だが少女の奏でるピアノは今までの誰とも違う気がした。
 少女のピアノの音はあくまでやさしく、メロディーもとても軽やかだ。なのに音にはとても重みがありずっしりとはるかの胸に響く。そしてひとつひとつがはるかの心の中に暖かなを余韻を残していく。
 まるで乾いた大地に、雨が降るように。
 やがてそれははるかの体中心中をいっぱいに満たし、溢れ出る。
 少女を見つめるはるかの頬に、幾筋もの水が伝う。
 それははるかを濡らす雨なのか、それとも涙なのか。
 はるかはまるで置いてけぼりにされた子供のように頼りなく、ぽつんとそこに立ちつくしていた。
 ほどなくして気配を感じてか、少女がハッとふり返り手を止める。
 無言のまま、窓越しに交錯する視線。
 辺りに響くのはサァァァァッという雨音だけ。
 緊張の中にもどこか優しげな静謐。
 やがて少女のほうがふっとほほえみ、視線をピアノに戻して続きを弾きはじめる。
 はるかはそれを見て、はーっと息をつく。少女のほほえみでやっと金縛りがとけたようだ。
「そんなところに立っていると、濡れてしまうわよ」
 少女は手を休めずに、澄んだ声ではるかに言う。
「うん」
 返事は返したものの、そのままのはるかに少女は続ける。
「ピアノお好きなの?」
「・・・うん」
 はるかはどこか上の空でうなずく。
 それきり会話はとぎれ、ピアノの音だけがなめらかにすべるように二人のまわりを漂う。
 はるかは黙ったまま静かにそれを聴いていた。
 雨はなおも降り続いていた。
『いつまでもこうしてピアノを聴いていたい』
 はるかは心の中で思った。
 しかし一曲弾き終わると少女はもうおしまいというように、そっとピアノのふたを閉じた。そしてはるかのほうに歩み寄る。
 窓の前でずっと立っていたはるかは、雨にしたたかに濡れていた。
 少女はポケットから白いハンカチを取り出すと、窓から身を乗り出して濡れたはるかの顔をやさしく拭う。
「迷子なの?それとも雨の精霊さんかしら」
 そういって笑う少女を見ながら、はるかは遠慮するでもなくされるがままにしていた。
 近くで見る少女はまだあどけない。透き通る白い肌と巻き毛のせいで少女の方がよっぽど精霊に見える。
「ごめんなさい、もう行かなくちゃ。ここ、閉めるわね」
 少女はそう言うと少し淋しげにほほえみ、開いた窓に手をかける。
 はるかはとっさに少女の手をつかんだ。
「あ・・・」
 少女は驚いてはるかを見返す。はるかも自分で自分のしたことに驚いていた。
 二人は無言のまましばらく互いに見つめ合う。
 絡み合う視線に暖かさと、どこか懐かしさを感じているのははるかだけだろうか。
 少女はふわりとほほえみ、さっきまでとは違う口調で言う。
「ピアノ、最後まで聴いてくれてありがとう。本当に嬉しかったわ」
 まっすぐにはるかを見返す少女の瞳は、まるで夜の海のように美しかった。
 首を振りながら不意に言いようもない切なさに襲われ、はるかはかすれた声で聞く。
「また、会えるかな・・・」
 はるかの言葉に、少女はにっこりと笑顔を返す。
「ええ」
 はるかはその後雨が降るたび、思い出したようにここに足を運んだ。しかしピアノの音が聴こえてくることはなく、再び少女に会うことはなかった。

「はるか、はるか!」
 呼び声とともに肩を叩かれ、はるかは驚いて目を覚ます。
「そんなところで寝てると風邪ひくわよ」
 目の前には見慣れた顔。いつの間にかソファーに座ったまま眠ってしまったようだ。
「みちる?」
 時計を見るとまだ5時すぎ。確か帰宅予定は7時だったはずだ。
 はるかはソファーから立ち上がり、大きく伸びをしながらみちるにたずねる。
「ずいぶん早かったんだね」
「はるかもいないし、退屈だったから抜けてきちゃった」
 みちるは肩ごしにいたずらっぽく笑って、着替えるために自室へと消えていく。
 はるかは再び部屋に一人とり残された。
 あいかわらず外は雨が降り続いている。
 聞こえてくるのはすっかり耳になじんでしまったサァァァァッという雨音だけ。
 目の前に広がるやや色彩に欠ける景色に、はるかは誰ともなく問いかける。
『ひょっとしてあれは夢だったのか?』
 昔も今も変わらぬ情景が、現実と幻の境界をあやふやにさせる。
 あの時のピアノの音と少女のあどけない笑顔が、ぐるぐると頭の中で駆け巡る。
『夢でもいいから、もう一度会いたかった』
 まだ幼さの抜けなかった季節に残したやさしく切ない想いを、はるかは胸の中で噛み締める。
 バタン!
 もの思いにふけっていたはるかは、扉の音で我に返る。驚いて振り向いたはるかに、自室から戻ったみちるはキョトンとした顔でたずねる。
「・・・なあに?」
「いや・・・」
 はるかは小さなため息をつき、気を取り直してみちるに笑いかける。
「お茶でもいれるよ。みちるも飲むだろ?」
「ええ、ありがとう」
 そう言うとみちるははるかの前を通り過ぎ、スッとピアノの前に座る。
 はるかはキッチンでやかんを火に掛けてコーヒーメーカーに水を入れ、紅茶の缶を開ける。
 みちるは何もいわずにピアノを弾き始める。
 みちるの指が奏でるなめらかなメロディーを背中で聴きながら、はるかは二人分のカップをテーブルに並べていく。
「!」
 その手が不意に止まる。
「その曲は・・・!」
 はるかはまるで怖いものでも見るように、おそるおそる振り返る。
 静かにほほえみながら愛しむようにピアノを弾くみちると、そのピアノが奏でる軽やかなメロディー。
 はるかの脳裏にあの洋館での出来事が瞬時に甦る。
『あの時の・・・!』
 呆然とするはるかの耳に響いているのはみちるの弾くピアノの音なのか、それともあの少女の弾くピアノの音なのか。
 立ちすくむはるかの前で、みちるはいつまでもピアノを弾き続けた。
 澄んだピアノの音は雨音に染み入るように、どこまでも流れていった。
 雨はいつまでも、降り続いていた。

END

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