厳しい季節がやっと重い腰を上げ、嫌われ者の花粉がそろそろその勢いを鎮める頃。 日本人なら誰もが好きな花が、その可憐な姿を現す。 日本の花、さくら。 決して派手な花ではないのに、誰もが一つはその花にまつわる思い出を持っている。 春の訪れを告げるその花が開くのを、人々は今か今かと待ちわびている。 もちろん、海王みちるもその一人だ。 みちるは桜を見るたびに、あの時のことを思い出す。 今では、誰よりも大切な人のことを。 天王はるかはキッチンから漂うかつおだしの匂いがするリビングで、 「今夜は煮物かな。」 なんて独り言をいいながら、一人ソファーに座ってテレビで夕方の情報番組を見ていた。 今日は同居人が夕食を作る当番だ。あらかじめの取り決めで、お互いに相手の料理には、手も口も出さないことになっていた。彼女は最近和食に凝っている。 テレビでは美人のレポーターがニコニコ顔で、湯気の立ったどんぶりに顔を近づけていた。 「うわ、うまそう・・・。」 お腹がペコペコなはるかは、思わず画面のラーメンに見入る。 と、不意に白い手が横からと伸びてきてテーブルの上のリモコンを取ると、パッと画面のラーメンが天気図に変わる。 「あ、今いいところだったのに・・・。」 はるかはぶつぶつ言いながらも、白い手の持ち主が自分の頭の上がらない相手だとわかっているので、それ以上は追及しない。 「明日の天気は・・・晴れと。週間天気はまだこれからね。」 彼女がリモコンを返してくれるのを、はるかはおとなしく待っていた。 「みちる、最近天気ばかり気にしてるけど、何か予定でもあるの?」 手持ち無沙汰にふと思いついたことを口にしてみるが、 「そう?はるかの気のせいじゃなくて?」 と、軽くあしらわれる。 みちるは予報の最後の週間天気まで確認すると、そのままリモコンをテーブルに置いてスタスタとキッチンへ戻っていく ここ一週間ほどみちるが毎日天気予報をチェックしていることに、はるかは気づいていた。 「おだんごたちに、花見にでも誘われたのかな。でもそれなら僕にも一言あるはずだよな。」 天気予報では最近いつもの予報のほかに、スギ花粉情報と桜の開花情報をやっていた。みちるもはるかも幸いまだ花粉症にはなっていないので、みちるが毎日予報をチェックする理由はそれくらいしか思い当たらなかった。 はるかの想像のとおり、みちるには密かに楽しみにしていることがあった。それははるかにも少なからず関係のあることだったが、はるかには知られたくなかった。こっそり一人で楽しみたかったのだ。 それには二つの条件があった。 一つは桜が咲くこと。もう一つは雨が降ること。 どちらが欠けてもダメだった。 満開の頃に雨が降れば申し分なかったが、天気はそう思い通りになってはくれない。 みちるはその条件下で見たいものがあるのだ。 あの時のように。 いよいよ桜の花があちこちで開き始めた。 はるかはバイト先からの帰り道、桜の木を見つけてふと足を止めた。 いつもはどこに行くのにもバイクに乗っているのだが、今は修理に出していて徒歩で通っているのだ。 「へえ、こんなところにもあったんだ。」 普段は見過ごしていたその木も、薄紅の花を一つ二つつけただけで、こんなにも見違えるものだとは。 「なんか、いいもんだな。」 花といえばいつも誰かにプレゼントするのが専門のはるかも、桜は別格に好きだった。 この花には嬉しいこと、切ないこと、沢山の大切な思い出がある。 「これから毎日咲いていくのが見られるな。」 バイトに行く楽しみが一つ増えた気がした。 「!?」 その時はるかは何かの視線を感じた気がして、はっと振り向いた。 しかし向こうに大きな白いイヌを連れた女性がいるだけで、怪しい人影はみあたらない。 「気のせいかな・・・。」 まわりに注意を払いつつも、はるかは家へと戻った。 しかしそれはその日だけでは済まなかった。 次の日もその次の日も、その桜の木の下に来ると必ず視線を感じた。 「最近誰かに見られてる気がするんだよね・・・。」 はるかは三日目の夕食時にみちるにこのことを打ち明けた。 「悪い感じじゃないんだけど、なんか気になって・・・。」 と言いながら、ネギを入れた納豆をぐりぐりとかき回す。 みちるは少しの間はるかの顔をじっと見つめ、 「はるか・・・自意識過剰じゃなくて?もてる人はつらいわね。」 と、にっこり笑顔を返す。 はるかは、カクッと肘をテーブルから滑らせた。 みちるはダメ押しに、 「暗い夜道はお気をつけになってね。」 と言って、ほほほと笑う。 「はい、そうします・・・。」 はるかは力なくそう言って肩を落とす。 でも考えてみればみちるの言うとおりかもしれない。今のところ実害はないし、そのまま放っておくしかないか。 「それよりも、天気天気。」 みちるはそんなことなどどうでもいいかのように、今日もテレビで天気予報をチェックする。 「明日は、雨になりそうね・・・。」 そう言うみちるの口元に意味ありげな微笑が浮かんだことに、はるかは気がつかなかった。 「ねえみちる。明日花見にでも行かないかい?」 はるかが気をとりなおしてみちるを誘う。 「ごめんなさい。わたくし、明日は先約がありますの。」 みちるは振り返りもしないでそうそっけなく言った。 「そっか。誰か他の人でも誘うかな・・・。」 はるかは口ではそういいながらも内心、 「何かみちるを怒らせるようなことしかたな?」 と心配になって横目でみちるを窺うが、変わった様子は見られなかった。 桜はそろそろ満開になろうとしていた。 翌日は朝から花曇り。 「ああ、やっと来たわ。待ちに待ったその日が。」 みちるは声に出してその感激をかみ締める。おあつらえ向きに今日は午後から雨。 「完璧だわ。」 はるかがバイトにでかけた部屋で、みちるは一人心を躍らせていた。 目を閉じるとあの光景が目に浮かぶ。今でもなお心に焼き付いているあの出来事。 大好きな光景を今日再びこの目で見ることが出来るなんて、本当に夢のよう。 みちるはわくわくしながら日中を過ごし、午後のお茶の時間にあらかじめ用意しておいたとっておきの紅茶を淹れた。 「今日はこれでなくてはね。」 その名も『さくら』という紅茶は、きれいな琥珀色にほのかに桜の香りが漂う。 みちるはゆっくりと、そして存分にその香りを楽しんだ。 「そろそろ、時間ね。」 飲み干したカップをそのままにして、みちるは傘を一本持って家を出た。 歩き出すとすぐに空からはポツポツと雨が落ちはじめた。 そしてみちるが向かった先は。 そこには一本の満開の桜の木があった。 その見事なこと。 しかしみちるは近寄ることなく、少し離れた欅の木の陰から桜の木を見つめる。そのまま何をするでもなく、傘をさしたまま立ち尽くしている。 「やだー、降ってきた。もう、桜散っちゃうじゃん。」 みちるの横を白い大きなイヌを連れた女性が、駆け足で通り過ぎていく。 みちるは、なおも立ち尽くしている。 その桜の木は、降り出した雨で木肌がみるみる濡れていく。するとさっきまでピンクに煙るようだった桜は、その趣をガラリと変える。 雨に濡れた木肌は黒々と染まり、その存在をことさらに主張する。その上にやさしく降り積もるかのような薄紅の花。 その黒と薄紅の見事なまでの対比。 それが桜の存在をさっきよりもずっと際立たせる。まるでまわりの景色からそこだけ浮き上がっているかのように見える。 日常空間にぽっかりと現れた別世界。 みちるは陶然とその木に見とれた。 まわりには誰もいない。ただ静かに雨の音だけが響いている。 どのくらいそうしていただろうか。 向こうからパシャパシャと水音を立てながら、誰かが雨の中を走ってくる。 「参ったな。こんなに早く降り出すなんて。」 そうつぶやきながら、その人はふとあの桜の木の下で足を止めた。 雨に濡れながらも、上を見上げている。 「へえ、雨が降るとまた感じが違うもんだな。」 感心したように言うと、そのまましばらく眺めている。 そぼ降る雨の中、満開の桜の木の下で佇む人。 「ああ、これよ。・・・これだわ。」 私がどうしてももう一度見たいと心から願ったもの。 数年前のある日。今でも忘れられないあの日。 その日みちるはいつもの道で、あの人がくるのを待っていた。 今日こそ、今日こそ話しかけよう。そう心に決めて。 しかし今日に限ってなかなか現れないその人を待っている間に、みるみる天気が変わり雨が降り始めた。 「降ってきちゃったわ。どうしようかしら。」 傘を持っていないみちるは、少し躊躇した。このままあの人が現れないのなら、今日もあきらめて帰ろうか。 みちるの決心が崩れかかった、その時。 あの人が現れた。 「!」 涼やかな瞳に、整った顔立ち。凛としたその姿。遠目でもすぐわかる。 しかし動揺したみちるは、その人に話しかけられなかった。 その間にもその人は目の前を颯爽と通り過ぎていく。 みちるは何も言うことが出来ずに、ただその人を見送った。 と、その人は少し向こうで不意に立ち止まった。 「?」 みちるが不思議に思ってそのまま様子を窺うと、どうやらその人は近くの木を見上げているようだ。 それは満開の桜の木だった。 みちるとその人の前で、その木は雨に濡れみるみる姿を変えていく。 雨に濡れて色が変わった黒い木肌に薄紅の花。 それは無性に綺麗に、色っぽくさえ見えた。 みちるは不意に、以前人に聞いた話を思い出した。 「桜の花が咲く頃、桜の木の皮を剥ぐとその下も桜色をしてるんだよ。見えなくても桜は全身で花を咲かせる準備をしてるんだね。」 目の前で、その桜を見上げてほほえむ人。 「ああ、あの人も桜なんだ。」 無意識にみちるはそうつぶやいていた。 天王はるか。 すらりとした背にショートヘアの似合う凛々しい顔立ち。いつも颯爽と歩き、まわの人を魅了する。その美少年とも見まごう姿。 その反面、彼女が実に繊細で、誰よりも優しさにあふれているのをみちるは知っていた。 でも彼女はいつもそれを隠し、まわりの期待に応えて憧れの君を演じている。 誰にもその本性を見せずに。 みちるには、目の前のはるかと桜の木がダブって見えた。 すばらしいものをその身に秘めながら、それを表には決して現さない。いつの日にか来る大切な時に、全身全霊を懸けるかのように。 そのひたむきさと潔さ。 ああ、この人でよかった。 これからいろんな辛いこと・悲しいことを共にする相手が、この人で本当によかった。 みちるは心からそう思う。 自分の運命・宿命というものを心のどこかでは恨んでいるみちるも、この人選だけは心の底から感謝した。 この人とならやっていける。 そぼ降る雨と、満開の桜と、それを見上げてほほえむはるか。 この光景を私は一生忘れないだろう。 しばらく雨に濡れる桜に見とれていたはるかは、あの視線を感じて振り向いた。 「!」 いつもは視線の主は見あたらなかったが、今日は向こうの木の下に傘をさした人が立っているのが見えた。 「見つけた!」 はるかはそうつぶやくと、その人に向かってまっすぐに歩いていく。 相手は気づいているのかいないのか、その場に立ったままだ。 はるかがその人の目の前まで近づき口を開こうとした時、ふと傘の下の瞳と目が合った。 「!・・・みちる?!」 欅の木の下に立っていたのは海王みちるだった。 「どうしたんだい?こんなところで。」 はるかは予想外の人の登場に、驚いた。 「ひょっとして、迎えに来てくれたの?」 はるかがたずねると、みちるは自分の傘を差しかけて言う。 「見とれていたのよ、はるかに。」 「え!?」 「はるかにはやっぱり桜がよく似合うわ。」 そう言うみちるの瞳は濡れているように見え、はるかは慌てた。 「みちる、何かあったのかい?」 みちるはゆっくりと首を横に振る。そしてはるかの腕に自分の腕を絡めて、一本の傘に二人で入る。 「さ、帰りましょう。」 はるかを見て、にっこりとほほえむみちる。 はるかはそれ以上、何も聞くことができなかった。 二人は家への道をゆっくりと歩いた。 「みちるのほうが、似合うと思うけどな。」 はるかがさっきのみちるの言葉を受けて、ぼそっとつぶやくように言う。 「ううん。今のあの桜は、はるかにこそ似合ってよ。」 言い返すみちるの声は、あくまで優しい。 「そうかな?」 「そうよ。」 二人は冷たい雨の中、互いの温もりを感じながら黙ったまま歩き続けた。 このまま時が止まればいいのに。 みちるは心の中で、そうつぶやいた。 翌日、みちるは再びあの桜の見える欅の木の下にいた。 雨が上がるとともに風が出て、満開の桜の花を容赦なく散らしていく。 みちるはその夢のように美しいさまを、静かに見つめていた。 散っていく花びらに一人密かに誓う。 「何があっても、私が護ってみせるわ。」 そう言うみちるの顔はあくまで穏やかで、しかしその瞳には強い光が宿っていた。 と、向こうからエンジンの音を響かせながら、一台のバイクが走ってきた。そしてみちるの目の前でピタリと止まる。ライダーはメットのバイザーを上げて、凛とした声で呼びかける。 「みちる!」 みちるはそれを見て、ちょっと残念そうにため息をつく。 「バイク直ったのね。」 「ああ。今取りに行ってきたところ。乗ってくだろ?」 はるかは楽しそうに、備え付けのみちる専用のメットを手渡す。 「ええ。」 みちるは慣れた様子でヘルメットを被り、後部席に座る。はるかは丁寧にバイクを発進させる。 「ねえ、あそこで何してたの?」 くっついたメット越しにはるかはみちるにたずねる。 「あなたのこと、考えてたのよ。」 みちるははるかに聞こえない様に、そっとつぶやく。 「え!?」 案の定聞き返すはるかに、みちるは意地悪そうに言う。 「ひ・み・つ・よ。」 それを非難するはるかの声は、バイクのエンジン音にかき消された。 走り過ぎるバイクに巻き上げられ、桜の花びらが吹雪のように舞った。 END >作者紹介 |
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