ガレージにとめた愛車に乗り込み、はるかはキーを回した。
セカンドシートに残る、みちるの香りを抱きしめながら車を公道へと進める。
丘をくだり、車で5分足らずの場所に海岸からも見える駅があった。駅が近いことは家探しの条件として、車を運転しないみちるのためのものでもあった。もちろんはるかはみちるの運転手を喜んで務めるつもりではいたが、レースの遠征で留守にすることなどを考えると無視できない条件だった。
駅前にはシャレた商店街があり、はるかはそこで買い物をすることにした。
まずはシャンパングラスを選ぼうと一軒の店に入ると、はるかはあれこれと見比べて気に入ったグラスを2つ手にした。空の蒼、海の碧とも見て取れる切子のグラスは、店内の灯りを乱反射させて輝いていた。
「あ、ユキさんのも買わなきゃな」
無意識に2つという単位で物を考えていた自分に少し照れながらも、はるかはカットグラスを3つ手に取った。
幸代と先回会ったのは、はるかが全寮制の中学に入る直前のことだった。
はるかには母がいない。正確に言うと死別していた。はるかの母は、はるかの誕生と引き替えるようにその命を閉じた。はるかの父はわが子の誕生を祝うこともできぬほど深く悲しみ、その事実に背を向けるかのように、今もなお、仕事に没頭して家を空ける日々を過ごしていた。
両親不在の大きな家で、はるかは兄弟姉妹もなく、幸代と2人で暮らしていた。寂しくなかったと言えばウソになる。それでも母の残したピアノと幸代の愛情は、はるかを寂しさから救っていた。
1年の内に、数える程しかはるかと父は顔を合わせることはなく、はるか自身、父に疎まれていると思えることもあった。しかしはるかがピアノを弾いている時だけは、父の周りを包む空気が優しい光の色に見えるような気がしていた。だがそれは、父の見ているものが自分ではなく、自分の向こうに母の姿を見ているからなのだとはるかは感じていた。
若くしてコンピュータ関係の会社を立ち上げたはるかの父は、はるかが小学校に入学するころには、モータースポーツチームのスポンサーとなっていた。
気まぐれか、父は一度だけはるかをサーキットへ連れ出したことがあった。
スタンドから見ていたはるかの目の前をマシンが走り抜ける。その一瞬の出来事がまるで永遠のように感じ、はるかは心をつかまれ揺すぶられた。ピットの中は熱気が立ち込めていた。それがマシンの発するものではなく、そこにいるスタッフの情熱なのだとはるかが気付いたのは、自分の中に同じ熱い気持ちを感じた時でもあった。
ポケットの中で、車のキーがチャラチャラと音をたてる。
「何だか懐かしい感じだな…。戦士の休息ってヤツか」
久しぶりに幸代に会って昔のことを思い出していたはるかは、たまにはイイヨナ、とひとりつぶやき、箱詰めしてもらったカットグラスを抱えて車に乗り込んだ。
第3章 END
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