「バッハ?」
来てくださるでしょ? と演奏会のプログラムをみちるから差し出された。
ボクはそれを受け取ると、生返事をひとつしてソファに身をあずけた。
都内に新築された音楽ホールのこけら落としなのだそうだ。何人も演奏家を集め、『バッハの夕べ』と題して数時間をバッハの名曲の数々で過ごす。その演奏家の中のひとりにみちるの名があった。
「じゃあ私、少し練習するから」
そういい残し、みちるは地下のレッスン室へと姿を消した。
海辺の白い館は、ボクがみちるのために探し出した家だ。小高い丘の上にある白亜の館の地下室は、傾斜を利用した造りになっていて、ステンドグラスをはめこんだ小窓から光が差し込み、地下室というには明るい室内を演出していた。閉鎖的な雰囲気はない。前の持ち主が音楽家だったのか、地下室は防音が施されていて、夜中だって周りを気にすることなく楽器をならすことができる。
「バッハか……」
ボクは深くため息をついた。
以前は好きな作曲家だった。いや、今でも好きな曲は多くある。
「でもなぁ……」
ボクはプログラムを閉じると目の前のテーブルにそれを置いた。代わりに車のキーを握ると、玄関へと足を向けた。
みちるの演奏会には、これまでも可能な限り聴衆者のひとりとして参加してきた。今回の『バッハの夕べ』の開催日にはレースの予定もなく、何の支障も見当たらなかった。
「でもなぁ……」
同じ言葉をつぶやいた。ボクは愛車に乗り込み、キーを回すことなくシートの中でプログラムの中の曲目を思い返した。
バッハと言えば室内音楽だ。
♪ 無伴奏チェロ組曲
♪ アヴェ・マリア
♪ 2つのヴァイオリンのための協奏曲
このほかにも名曲が連なっており、いろいろな楽器でバッハをを楽しむという趣向らしく、地味なようでいて華やかなプログラムだった。そしてこのホールにはパイプオルガンが備えられており、国内でもどうやら最高クラスのものらしい。だからプログラムのトップを飾る曲、つまりその日のメインディッシュともいえる曲はパイプオルガンの曲だった。バッハはパイルオルガン曲も数多く残している。
「ふぅ……」
重い頭の中のモヤモヤを吹き飛ばそうと、ボクは愛車のエンジンをスタートさせた。いつもより少しフカし気味の発進だ。
あの日、タリスマンが出現する予感と共にマリンカテドラルを訪れた。愛車のシートが、一瞬、ヘリコプターの操縦桿をにぎっていたあの時の感覚を思い起こさせた。
みちると共に踏み入ったカテドラル。そして待ち受けていたユージアルの罠。ボクをかばったみちる。
ボクの脳裏にあの時の記憶が鮮明によみがえる。
そう、あの曲と共に。
壁の中に消えたみちる。そしてカテドラルに響いた曲。バッハの『トッカータとフーガ ニ短調』だ。
詩人のヘルマン・ヘッセは、この曲の冒頭部分を「始原の沈黙が張りつめ、闇が統治する…」と表した。彼の詩には雲を歌ったものが多く存在する。ボクが自分では言い表せないモノを、ぴたりと言葉という形に当てはめてくれる。好きな詩人のひとりだ。
「沈黙が張りつめ闇が統治する」
この詩をユージアルが知っていたのかはわからない。しかし沈黙を恐れていたボクには、タリスマンが現れるか否かのあの場所でみちるが連れ去られトッカータとフーガを聴かされたことで、まるでヘッセが預言者のように思えたのだ。恐れていたことが現実になる。その序曲に聞こえた。
ボクは走った。その思いを振り払うように。
礼拝堂に見つけたみちるの姿。まるでネプチューンに捧げられたアンドロメダのような姿。海神ネプチューンに魅入られてしまったのか。
「大丈夫さ」
ボクは自分を納得させようとひとりごちた。
あれはタリスマンを出現させるための儀式とでもいうべきか。過程のひとつに過ぎなかったのだと、今は思える。結果タリスマンは現れたし、ボクらは今こうして生きている。
ボクはもう一度、プログラムの曲目を思い返した。
プログラムには『トッカータとフーガ ニ短調』が載っていた。
前編 END
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あとがき
*参考文献:朝日出版社『雲 WOLKEN』ヘルマン・ヘッセ/著 倉田勇治/訳