演奏会前日のリハーサルを終えて帰宅したみちるを、ボクはリビングに置いてあるグランドピアノの前で迎えた。
「おかえり」
「ただいま。ピアノ、弾いてらしたの?」
みちるは上着を脱ぎ、そのままソファに身をあずけた。
「うん、バッハだよ。メヌエットをね」
「あら。バッハは嫌いなのかと思ったわ」
いたずらっぽくクスリと笑われた。どうやら最近のボクは、やはり相当な挙動不振だったらしい。
参ったな、とボクは洩らし、ピアノから離れてみちるの横に腰を下ろした。
「バッハは好きな方だよ。構成が緻密だし、哲学的でもある。それに何だか君の奥底に触れているような気にもなるんだ」
みちるがまっすぐにボクを見つめている。ボクはその視線を正面から受け止め、言葉を続けた。
「でもね、逃げ出したくもなる」
みちるの瞳は深く、深海を映し出していた。美しいこの瞳を輝かせることはあっても、濁らせては……まして永遠に閉じたままなんてことにはさせたくない。最悪な状況を想像しただけでボクは震えた。
「まるでトッカータ(触れる)とフーガ(逃走する)ね……」
気がかりを言い当てられドキリとした。
ボクはみちるを試していたのか? 言い当てられ、あの曲のことをみちるに気付いて欲しいと自分が願っていたことに気付いて驚いた。
みちるはマリンカテドラルで、あの曲を聞かされたという記憶はあるのだろうか。それさえも明白ではないのに、自分の身勝手さに、ボクは少し嫌気がさした。
「ゴメン、変なこと言って」
ボクはそう言うとソファから腰を上げ、弾きっぱなしにしてあったピアノに歩み寄った。
「明日はちゃんと送っていくから……」
譜面台にあった楽譜を手にして、ボクはリビング横の小部屋へ入った。
その部屋は納戸になっていて、今は書籍類、主に楽譜が棚にズラリと揃えられていた。まだ整頓ができていない部屋なので、ダンボールの箱が口を開けたままいくつも床に並んでいる。中には楽譜が詰まっていた。
よく弾く曲の楽譜は棚に並び、昔の練習曲や好きな曲でもアレンジ違いのイマイチ曲は箱の中に納まっている状態の部屋。
ボクの母親のピアノ譜もけっこう割合を占めているが、やはりみちるのものが多くあった。二人ともが多忙だから、この部屋はなかなか片付かない。
いや。ボクはやはり避けていたんだろう。バッハに会うことを。
ボクは床に座り込み、ダンボールの中を探った。
『ベートーヴェン』『ショパン』……。
楽譜の作曲者を見て、この箱が自分の持ち込んだものだと判る。
となりの箱の中を探る。『ホルスト「惑星」』『スメタナ「モルダウ」』『チャイコフスキー「スラヴ行進曲」』……。これはみちるの箱だと判る。オーケストラの曲ばかりが入っていた。
次の箱を探る。『バッハ「フーガ ト短調」』。
これだ。この箱の中にはきっとバッハの楽譜が入っている。
フーガとはドイツ語で「Fuge」逃走するという意味がある。しかし今ボクは逃げてはいられないんだ。そう意識して、さらにその箱の中を探った。
『ブランデンブルグ協奏曲』『平均律クラヴィア曲集』『カンタータ』……。探っていくと、やはりバッハの箱だった。バッハだけはその作曲数が相当なことから手持ちの楽譜も大量だ。ひと箱以上がバッハの楽譜に違いない。そして曲名を見て、その曲を思い浮かべると、やはりバッハは好きだな、と思う。畏敬の念をも抱く。
ついに『トッカータとフーガ ニ短調』の楽譜を探り当てた。もともとはオルガン曲だが、オーケストラにも編曲されている。手元のこれはピアノピースだ。ボクには一番読みやすいタイプ。ボクは弾こうと思ったことはなかったけど、母がよく弾いていたのだろう。ピースの背が擦り切れて、使い込んであるざらついた感じが伝わってくる。
18世紀の始めに作られたといわれているこの曲は、格調高い多くのバッハ曲の中でも威厳にあふれている曲だ。
ヘッセの詞を借りるなら、冒頭部分の張りつめ闇が統治するくだりは、音楽に慣れ親しんでいない者ですら耳にしたことがあるほど有名でもある。
ピアノピースにして143小節ある中で、たったの3小節がこんなにもボクの頭の中を支配している。その後は何かに追われているのか、それとも何かを追って焦っているのか、ボクには混沌とした世界が続いているように思えてならなかった。
楽譜を目でおって曲をイメージしていたが、途中からパラパラっとページをめくり、ボクの頭の中からは音符は消えてなくなっていた。ところどころに鉛筆でマークがしてあった。母のものだろう。それは最後のページにまで及んでいた。母が曲のラストまで弾いていたという証だ。
もう一度曲をイメージしようとしたが、どうしてもマリンカテドラルでのイメージが脳裏に張り付いて剥がすことができない。
ユージアルがスイッチを切った小節から、ボクも次に進めないでいる。今日もまた、だ。
深いため息をついた。沈んだ気持ちを奥底から吐き出すように。
ボクは、部屋の外にはまだみちるがいるかもしれない、と思いながら納戸を出た。
みちるはいなかった。明日に備えてもう休んだのだろう。
そしてボクは明日、再び「沈黙」と出会う。
中編 END
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*参考文献:朝日出版社『雲 WOLKEN』ヘルマン・ヘッセ/著 倉田勇治/訳