コンコン。
終幕後、ボクは楽屋を訪れた。
「みちる?」
ざわついた廊下から声をかけると「どうぞ」と澄んだ声が返ってきた。
扉を開けると、既にステージ衣装から着替え終わり、くつろぐでもなく鏡の前に座るみちるがことらを伺うように見つめてきた。
「ちゃんと最後まで聴いてたぜ」
努めて明るく振舞って、少し両肩をすくめてみせた。
なおも見つめてくるその新緑の瞳を、ボクも正面からじっと見つめ返した。
肩を落としながらひとつ息を吐く。そして言った。
「ずっと逃げていたんだ。みちるは気付いてたんだね。知ってたんだ? あの時のこと……」
「ええ……」
やっと口を開いたマーメイドは伏目がちにうなづいた。
「そんな顔しないでくれよ」
ボクはあわてて両手を振って、そしてみちるに近寄り隣の空席に身を落とした。
「ちゃんと最後まで聴いたよ」
今度はふざけたりせずに、しっかりと言った。ボクは一度言葉を切り、天井を見上げて続けた。
「最後まで聴けて……よかったよ……」
あの時……マリンカテドラルで聖杯のために身を捧げた。
いや、もうひとつ。
愛する者のために身を捧げた。
2000GTをホールの入口に停め、みちるのために助手席のドアを開ける。
「お疲れ様。家で乾杯しよう」
「あら。何に乾杯するのかしら?」
ようやく深海の碧に明るさが差し込んだ。ボクは穏やかな温かさに抱えられたような気分になる。
セカンドシートに身を委ねたのを見届けて扉を閉める。
「もちろん、キミの演奏にさ」
うれしいわ、とボクが運転席に滑り込むのを見つめながら、みちるが微笑む。
そのマーメイドに、ボクはわざとスネたふうにつぶやいた。
「しかしもうひとりの演奏者。あいつがダメだったな。妙になれなれしいところもマイナスだ。みちるがひとりで弾けばよかったのに」
するとみちるは驚いた様子で、だが心底うれしそうな笑顔をボクに向けた。
「まぁ、妬いてくれるなんて。一番のほめ言葉かしら?」
「や、妬いてなんかいないさ」
ボクはあわてて言ったけど、みちるはひとり満足そうだ。
「ちぇっ」
本当にスネてやる、と思いながらアクセルを踏んだ。
「以前、いっしょに演奏したこと覚えてる?」
「もちろん」
「また、はるかと弾きたいわ」
本当に愛しい……ボクの守りたいひと……。
「喜んで」
愛車が車道を走り出す。
ボクたちの海辺に建つ白亜の館へと続く道を。そしてその先へと続く道を。
「少しドライブして帰ろうか。いいかい?」
「ええ、お願いするわ」
オッケーと言うと同時にギアをトップに入れる。風の音が心地いい。
「キミに会えて本当によかった」
「え、何?」
楽しそうに笑うみちると視線を絡ませる。ボクのささやき声は、風が包み込んでくれたみたいだ。
「このまま海まで走ろう」
空は既に闇に覆われている。
しかしもう、ボクは気付いたんだ。
闇の先にあるものを。
ボクを導いてくれた音楽と、愛する者に……乾杯!
プレリュード END
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