新築の音楽ホールは、都内とはいえ、ちょっとした森をイメージさせる木立の中に建っていた。
風が、木々のざわめきを起こす。
早々に会場入りしたみちると別れ、ひとりで木立の中を散歩して時間をつぶしてみる。しかしコンサートは夕刻からだ。考え直し、2000GTで海でも見に行くことに決めた。
愛車に戻り、シートに身を滑り込ませる。エンジンを始動させギアをローに入れる。
そして海へ……。
まるであの日と同じだな。
「くそうっ」
乱暴に駐車場から出ると、ハンドルを海へと向ける。
マリンカテドラル。いっそのこと、あれを見に行こうかとも思ってしまった。
あの時はヘリコプターだった。海の中に突如として現れたようにそびえ立つあの姿に、ヘリの操縦桿を握る手の中でじっとりとした汗を感じたことを覚えている。
「あの時も夕方だったな……」
何だか何もかもをこじつけているように思え、そんな自分に笑いが浮かんだ。しかし、まぁいいか、と思えるほどの気持ちにもなれなかった。
昼を過ぎ、日が少し傾きだしたころ、ボクは音楽ホールへと戻ってきた。開演前に一度みちるの楽屋を訪れるためだ。
「みちる、入るよ」
コンコン、と軽いノックと同時に扉を開ける。
衣装に身を包む前、ちょうどお茶をしていたらしい。ハチミツの香りがほんのり漂う。たぶん紅茶のネプチューンだろう。カップからはまだ湯気が立っている。
「はるかもいかが?」
結局、愛車を運転し続けていたボクは、朝から何も口にしていない空腹に気付きながら、勧められるままいっしょにカップをすすった。
「今日……」
「今日は……」
二人が同時に口を開いた。見合わせてお互いにクスリと笑う。
「はるか、何?」
「い、いや……。今日はいろんなバッハが楽しみだなぁ……なんて……サ」
本当は違うことを言うつもりだったのに、ボクは適当にごまかしてしまった。
「み、みちるは? 何?」
みちるはそんなボクをじっと見つめ、軽く笑みを浮かべてからゆっくりと口を開いた。
「今日……必ず最後まで聴いていってね」
「え?」
「私の曲が終わってもここへは来ないで。演奏会の最後まで聴いて欲しいの……」
ボクの反応を見定めるかのように、みちるがボクを見つめる。祈るような瞳で……。
「みちるが……そう、言うなら……」
意外な申し出に戸惑ったが、ボクがそう言うとみちるの顔に安堵が広がった。
「よかった。そろそろ私、準備しなくちゃ」
みちるはそう言ってティーカップを置くと、立ち上がり、ボクに背を向けて肩越しに微笑んだ。
「着替え、手伝ってくださる?」
開演。
指定されたシートに身をあずけてプログラムに目を落とす。
『ブランデンブルグ協奏曲 第5番二長調 BWV1050 第1楽章アレグロ』
ブランデンブルグ公に捧げられたこの曲は、華やかに始まり、フルートに導かれるようにパーティ会場への扉が次々と開くような高揚感がある。
続いて『ハープシコード協奏曲 第5番へ短調 BWV1056』
その後も楽しい感じの曲が続く中、『無伴奏チェロ組曲 第1番 プレリュード』や『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ』『メヌエット ト長調』などの小作品も演奏された。
みちるの演目は『2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043』
2つの、ということは2人で演奏するのだろう。見知らぬ男の名がプログラムのみちるの横に並んでいた。
森のような深海のような深いグリーンに身を包み、みちるがステージへと現れた。男はまるでエスコートでもするかのように、みちるの手を取って会場に手を振っている。
会場は笑みを含んだどよめきで揺れる。
今日はホールのこけら落としのイベントだ。演奏者たちも聴衆も、お祭り的な雰囲気を楽しんでいる感があった。みちるの横に立つこの男も、そんな雰囲気に乗ったのだろう。ボクとしては「背中のファスナーを上げたのはボクなんだぜ」と毒つきたくなったが。
しかし演奏が始まれば、2つの旋律は響き合い絡み合いながら、追いかけ追われ、それぞれが主張し合っているようで、みごとに調和していた。みちるは当然ながら、男の演奏に対する真摯な姿も見て取れた。ここは拍手を送らねばならないだろう。
休憩。いつもならみちるの楽屋へと足を向けるのだが、「今日は最後まで……」というみちるの言葉に従い、もう一度もとのシートに戻る。
周囲は今までの演奏やこれからの曲についての評論や期待、ホールの響き具合や責任者についての噂話にまで花を咲かせていた。
ざわつきも、開演の合図と共に消え去る。
そしてボクの胸には焦燥が訪れる。
ステージでは、ハープシコードやオルガン曲が演奏され出していた。しかしボクの耳はただ聞こえているだけのものに過ぎず、その後に控えている曲に気持ちが傾いてしまっていた。
『トッカータとフーガ ニ短調 BWV565』
あまりにも有名な旋律。
世の中のあちこちで耳にする。映画のBGMだったり、テレビのCMでギャグ調の替え歌になったり……。耳にせずにはおられない状況の中で、そのたびに敏感に反応してしまう自分が情けない。
しかし、マリンカテドラルのあの惨劇を忘れることなんかできるわけがない。
自分たちの使命だと信じて疑わず、気持ちを奮い立たせてたどりついたあの場所。覚悟していったはずが、現実を目の前にして、成すべきことに涙した。あの時の……。
結果オーライと言ってしまえばそれまでだ。しかし、それがわかっていながらトラウマのように胸を鷲づかみにされてしまう。
ミチルガイナイセカイ……。
わずかな時間だったかもしれないが、ボクはそれを体験してしまった。体がそれを記憶している。
その序曲ともいえるこの曲を、ボクが好きになれるはずがない。
とうとう次の曲だ。演奏者がステージに上がる。ボクはあの時に握りしめた汗を、今手の中に感じていた。
『トッカータとフーガ ニ短調 BWV565』
高らかに響く警鐘のように最初のフレーズが駆け降りる。1オクターブ下がった次のフレーズは最終警告のようだ。
そして迫り来るような3連符。緻密に計算されつくしたかのような音の並びが続く。同じようで同じでないその音は、あのころの日々の戦いを連想させる。この次のフレーズが礼拝堂へと続く音だ。
ユージアルが曲を途絶えさせたあの瞬間がくる。
ボクの頭の中は一瞬真っ白になった。何も聞こえない。目の前にはあの時のビジョン。
曲は続いていた。厳かに。後半のフーガの部分だ。
ようやく五感が戻ってきたことに気付いたボクは、握りしめていたシートの手すりから手を離し、頬を伝っていたしずくを拭った。
みちるはどうして最後まで聴いて欲しいなどとわざわざ言ったのだろうか。
ボクの中の混乱を映し出しているかのように、曲は逃走している。何から逃れようとしているのか。どこへ逃げ込もうとしているのか。それがボク自身への問いかけなのか……。
曲が終りに近づく。一瞬の沈黙。直後にあふれ出る細やかな流れ。和音が響く。強く。高らかに。
鮮やかな響きは祝福にも似て、次の扉へと導くために雲をかき消していくようにも聴こえる。
光を……感じた……。
ヘッセの詩を思い出す。確かラストはこうだ。
『それは 衝動であり 精神であり 戦いであり 幸せであり、愛である』
そうだ。バッハは用意しておいてくれたんだ。混沌としたカオスの先に光があることを。
光は闇があるからこそ、光であると気付く。
ボク自身もまた……。
堂々とした和音が曲を締めくくる。
今日、二度目のしずくがボクの頬を濡らした。
そして演奏会、最後の曲『アヴェ・マリア』
透明なソプラノが……洗い流した。
後編 END
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コーダ >あとがき
*参考文献:朝日出版社『雲 WOLKEN』ヘルマン・ヘッセ/著 倉田勇治/訳